遠藤周作著「沈黙」 感想

映画「沈黙ーサイレンスー」のPRを見ていて、外国で映画化されるほどいい原作なのかなあと思って、あらすじをみたら興味をひかれたので、原作を読んでみました。ちなみに映画は見損ねました。テレビで放送あるといいなあ。

本を読んだ感想を書いていきます。ネタバレは極力避けますが、チョイバレはしているかもです。ちなみに、あくまで本を読んだ感想で、特定の宗教に対し特に意見するつもりは全くありません。基本何でもいい、特に何の主義もない無宗教です。

遠藤周作著「沈黙」

ポルトガルの司祭ロドリコさんが師匠であるフェレイラさんが日本で棄教したことを信じられず、日本に渡って、フェレイラさんを探したり、日本人信徒にあったりして潜伏していたが、役人に見つかり、拷問を受ける信徒たちを見せつけられ、神の沈黙とどう向き合うかをせまられる話。かな。

感想

全く的外れな思い込みだったのですが、この本を読む前は遠藤周作さんの本はもっと古典なイメージでお堅い小難しい小説なのかなと思って手に取ったことはなかったのですが、読み始めてみるととても読みやすく面白くて、とても意外に感じてビックリしました。でも、ポルトガル語と長崎の方言が全く意味が分からなかったので、訳があるといいなあと思いました。長崎の方言の一部は同じ日本語なのにさっぱりです。なぜ。

中身とはあんまり関係ない感想なのですが、この小説異様に虫の出現率多くないですか。虱とか、ハエとかめっちゃ多くて、虫が苦手な私としては読んでてかゆくなってきました。

前半は、ロドリコさんの渡航記って感じで読んでて面白いです。後半はそんな感じではありませんが。

キチジロー

作中で、ユダのようにたとえられ、裏切り者・卑怯者として扱われています。しかし、本当にそうでしょうか。彼は普通の人だと思います。彼はただ生きようとしているだけです。踏み絵を踏むように促され、踏み、他の隠れキリシタンを教えるように言われ、教え、パードレを引き渡すようにいわれ、手引きした。確かにキリシタンから見れば裏切り者でしょう。でもそんなに薄汚いとまで言われる存在でしょうか。どちらかというと正直一番薄汚いのは、キチジローに出頭を押し付けた村人達のように私は思います。あんなにありがたがった司祭をどっかに追い出し、出頭さえも自分以外になるように目を伏せ、最終的に別の村の者であるキチジローに押し付けた。こっちの方がよっぽど薄汚いと思います。彼は現状に合わせて生き延びる方法を選んだ。それがそんなに悪いことでしょうか。生き延びる方法を選んだからといって、死んだ人たちよりも信心がなかったとどうして言えるのでしょうか。辛くなかったとどうして言えるのでしょうか。私の個人的意見としては、殉教者が一番の真の信徒だという考え方はちょっと違うかなと思います。

弾圧と布教

弾圧の理由は一応歴史として知ってはいますが、ホントのところはどうなんでしょうね。当時の政府の人ではないので真実は知りませんがそれを脇に置いておいても、弾圧の仕方がすごいですね。確かにトップをつぶせばいずれなくなるという考え方は最も効率的だったのは、そうだろうねって感じですけど、拷問が野蛮過ぎて引く。

布教の理由も知らないではないですが、正直よく分からないというのが本音です。役人の言う余計なお世話っていう方が納得いきます。司祭が正はどこでも正で、そうでなくては正ではない的なことを言ってますが、私的にはそうかなあって思ってしまいます。それはあなたにとっての正であって、人によって見えているものは違って、多面的なものなんじゃないのかなあ。すべての人間にとって正でないといけないっていうのは、価値観の押し付けのように感じるし、なんか傲慢だなって感じてしまいます。あなたにとって正なのは別にどうでもいいですけど、それを押し付けないでほしい。転ぶなって言いますけど、その人は仏教からキリスト教に転んでますよね。なんでキリスト教に転ぶことは正で、キリスト教から転ぶことは罪なんでしょう。政府と同じくらい排他的ですよね。その考え方って。まあやり方は全然違いますけど。飴と鞭くらいに。

そもそも、布教は本当に成功していたんでしょうか。フェレイラさんが言っていたように多分違うものになっていたと思います。だって、百姓たちが信仰していた理由は、天国は年貢も飢餓も病もない別世界と夢見ていたからに他ならないからだと思うんです。彼らが求めていたのは、キリスト教の教義とかではなく、今の苦しみから解き放ってくれるものだったんではないでしょうか。最初に、爆発的にキリスト教徒が増えたのは日本人の流行りもの好き・珍しい物好き・舶来品好きゆえだったのではないでしょうか。そしてその上日本人はアレンジ好きです。自分に都合がよいようにどんどんアレンジされていくことはもう国民性です。例えば、クリスマスは恋人たちの夜になってますし、バレンタインデーは告白の日で、ハロウィンは仮装パーティーです。そんな国じゃないですか日本って。

神の沈黙

どれほど祈っても神は答えてはくれない。ほんとそうですよね。苦しんでいるときも共にあってくれるのはありがたいですけど、ともにあってくれても何も解決しないんですよね。理由のない試練は与えないとか言われても、こちらからすれば、正直要りません。あとどれだけ苦しめばいいですか、あとどれだけ耐えればいいんですか。こんなに苦しいのにどうしてあなたは答えてくれないんですか。どれほど祈ったって痛みは消えない。神の沈黙に対して本気で疑問に思えるのは本気で苦しんだ人だけだと思います。神の存在に疑問を抱くことが一番の罪だとか簡単に言うんだねと思う。思わずにいられない状況にホントに陥っても言えるものでしょうか。イビキだと思っていた頃みたいに本気で簡単に言えるでしょうか。

一番辛い愛の行為

司祭自身が転ばない限り、転んだ元信徒たちへの拷問はやめない。そう言われて彼らを救うために転んだ。それでいいと思う。それが彼らをホントに救うことだと思う。「踏むがいい」そう神からの言葉を聞いたと彼は言う。でも本当にそれは神の言葉でしょうか。自分自身が楽になるために聞かせた言葉でしょうか。堕天使の言葉でしょうか。私は堕天使の言葉ではないかと思う。でもそれでもいいと思う。私は共にいるだけで何もしてくれない者よりも、語り掛け救ってくれる者に好感を持つ。他の人にとっては堕天使にしか見えなくても、それが自分にとっての神になることってあると思う。そして、それが神ではなく堕天使だったと思えるようになったらまた、頑張ればいいんじゃないんですかね。

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